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【対談】小木曽麻里さんと井口恵が仕事について語る

INTERVIEW
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金融業界でキャリアをスタートし、世界銀行や開発コンサルティングで世界中を飛び回り、電力や水、トイレなど多くの事業に関わってきた小木曽さん。現在は笹川平和財団ジェンターイノベーショングループ長として活躍しながらも、一児の母でもある。
そして会計士としてのキャリアから一遍、事業家として独立後、株式会社AIRのCOOとしても邁進する井口。
今回はそんな二人に、自身の経緯やSDGsに含まれるジェンダーについて語ってもらった。

1、小木曽さんのこれまでとは

 

井口:小木曽さんがこれまで歩んでこられたキャリアをお聞かせください。

小木曽キャリアのスタートは銀行です。バブルの時代に、流行に押し流されるような形で就職しました。銀行を選んだ理由が、グローバルな仕事に携われるイメージが強かったこと、そして投資に興味があったためです。

当時はあまり知識がなくて、今思えば銀行以外の選択肢もあったかもしれませんね。

銀行では、コーポレート・ファイナンス(企業金融)と資本市場取引に携わりました。ですが、7年間やってみて、この仕事が一番やりたいことなのかを考えた時、やりたかったことは今でいう「SDGs」で、中でも「環境」「開発」だということに気づきました。

それをきっかけに、7年勤めた銀行を辞めて、修士を取るためにフレッチャースクール(タフツ大学)に通いました。そこでは、「環境と金融」という分野を学び、環境と金融、例えば環境資源をどうやったら証券化できるか、社会的な課題をどうしたら金融価値に変えられるか、がテーマでした。

日本に帰国しようと考えた頃、キャリアトリップに行く機会を得ました。キャリアトリップとは卒業を前に、生徒が教授らと様々な都市に赴き、現地で仕事を探すというものです。行き先はワシントンDCで、FBIやCIA、トレジャリー等を訪問出来るというので興味本位で参加しました。

その際、父の知り合いが世界銀行(世銀)にいることがわかり、お会いしたら「ちょうど金融と環境の仕事に携われる人を探している」と言われ、私の専門分野を伝えたらオファーをいただき、世銀に入ることになりました。

井口:世界銀行への入行はすごいですね。それも縁で入られたなんて!

小木曽:私は、縁もありタイミングもよく入れました。世銀は、日本の銀行とは全然違うところでした。日本の銀行時代も先進的な上司のもと働いていたため、銀行の営業部の若手を短期間、海外支店で働かせる取り組みをやっていました。しかし、女性は危ないからという理由で、行かせてもらえなかったのです。

世銀に入ってすぐに、秘書の方から「チームはみんなカザフスタンにいます!」と伝えられ、「追いかけてください!」とチケットを渡されました。

カザフスタンの当時の首都「アルマーティ」に飛び、到着して合流かと思ったら「チームは皆、カスピ海に移動しました。カスピ海へ向かってください!」と言われました。びっくりしましたね。

世銀では、様々な専門家がチームを組んで仕事にあたります。世銀で最初に行ったことは、水にまつわる問題解決です。

水のインフラを整備するチームのメンバーは環境、ファイナンス、社会コミュニティ、ガバメント規制のスペシャリストでした。国際色も豊かでポーランド人、カザフスタン人、日本人、アメリカ人、ドイツ人が集まっており、会話は英語です。当時は英語が下手で苦労しながらなんとか乗り越えました。今思えば、とてもおもしろかったですね。

 

井口:チーム内の女性は、小木曽さんだけでしたか?

小木曽女性は2人いました。インドの方で、彼女はリスクの担当。私は金融分析の担当です。最初に担当したプロジェクトは、カスピ海のほとりにある「アティラウ」という町の水道インフラの整備でした。

プロジェクトが立ち上がった理由は、水道が機能不全に陥っていたからです。当時ソ連が崩壊し10年以上経っていましたが、経済システムには昔の社会主義の名残が色濃く残っていました。社会主義システムでは水や電力などのインフラなどは国が全て無料で提供していたので、使用者に料金を払う義務感がなく、支払いが滞って、多くの水道会社が実質倒産したような状況でした。

支払われていた水道料金は、2割程度。水道代を払う文化のない方から、どうやってお金をいただくか。どのように財務状況を立て直すかが課題でした。

最初は、水道会社のアカウンティングのおばちゃんのところへ足を運び、朝から晩まで過ごし、状況分析します。その時驚いたのはPL(損益計算書)がなかったことです。「プロフィット&ロス」という概念も無い社会主義の国に、BS(バランスシート)やPLの意味や必要性について教えていました。

そのときは貴重な体験をさせていただいたと思っています。日本にいるときは変な意味で甘やかされていた面もあり、女性は危ないから海外出張には行かせられないなんて言われましたが、世銀ではカザフスカンの最果てに行き、街のおばちゃんを相手に仕事を進めていたため、1ヶ月で価値観はガラッと変わりましたね。

その後、カザフスタンにあるアラル海の環境プロジェクトに入ってくれと言われました。カスピ海とアラル海は、結構離れています。カスピ海とアラル海の間には鉄道があったのですが、非常に時間がかかったため、首都に戻ってまた飛行機で飛ぶという楽なルートでアラル海に行かせてもらえるのかと思ったら、当時のポーランド人の上司が「ここに鉄道があるじゃないか!」と。その鉄道は非常に遅いし衛生状態も余り良くなかったので、飛行機で行かせて欲しいと言うと、「その鉄道は僕の父親が戦争の捕虜になった時に現地で作った鉄道だぞ。」と伝えられ、断れずに乗ってしまいました。

その結果鉄道で3日近くかけて移動し、案の定車内で何かに感染し、高熱を発してしまいました。アラル海に到着したら高熱で1週間寝込んでも熱が下がらず、このまま日本に帰れないのではないかと思いました。ただその後熱が下がったので、ちゃんと予定されていた仕事をして帰ったら上司に驚かれましたね。そんな笑えるような笑えないような話があります。

 

井口:世銀と聞くときらびやかなイメージがありますが、壮絶ですね。

小木曽:当時の世銀は私から見ると、かなり泥臭いところから仕事をしていくイメージでしたが、その頃でさえ、以前から比べると世銀スタッフは現地にあまり行かなくなった、もっと行くべきだといわれていました。そのころの私のスケジュールは、ワシントンDCに1ヶ月、その後アティラウが1ヶ月、そしてワシントンDCに戻って1ヶ月と、そのペースで繰り返して現地に入っていました。

インフラ事業のあとはキャピタルマーケットに移りました。当時はアジア通貨危機の後の金融システム構築が課題で、どうやって途上国により安定した金融システムを構築出来るのかというタイでのプロジェクトに1~2年くらい携わりました。

その後東京に戻り、多数国間投資保証機関(MIGA)の東京事務所長に就任し、アジアのインフラプロジェクトに多く関わりましたが、援助だけでは上手くいかない、民間の資金を動員することが必要だとあらためて気づき、CSR(企業の社会的責任)に興味を持ち始めました。

企業のCSRやBOPビジネス(貧困層を相手にビジネスを通じて課題解決すること)のプロジェクトを日本企業と一緒に進めていきました。例えば、LIXIL社の無水トイレをインドネシアの開発が進んでいない地域に導入するプロジェクト、ミャンマーの奥地にソーラーランタンを届けるプロジェクト、カンボジアやベトナムの地方で安全な飲み水を提供しようとするプロジェクトなど、様々なプロジェクトに携わりました。

 

井口:凄い行動力ですよね。もともと行動力はお有りだったのでしょうか?

小木曽:行動力があったというより、現地での生活を体験し、突き動かされたと言ったら良いでしょうか。日本の銀行時代は、自分のミッションがなく「これをやれば面白いんじゃないか」、「変わるんじゃないか」というのもありませんでした。

ですが、世銀に入った後半くらいから、現地での色々な疑問とか「思いついたらやる」という周りの人の影響もあり、自分で立ち上げるようになりました。今で言うところのミニ起業ですかね。プロジェクトベースの仕事にたくさん関わりましたね。

 

2、笹川平和財団に入った理由とは

 

 

井口:その後、笹川平和財団に入られた経緯をお聞かせください。

小木曽:様々なプロジェクトを経験して、途上国の問題や社会課題を解決するのには、お金が回るコトが大事だと思いました。そのときに銀行に入った原点である、投資に戻ったのです。世界中の金融資産のうち数%でも社会課題に使うことができれば、すべて社会課題は解決できると言われています。社会課題を解決するテクノロジーは多くあります。しかし、そのテクノロジーは使われていません。なぜかと言うとお金が回らないからです。

例えば、アフリカにある眠り病という病気は、ワクチンを開発出来る可能性があるのに資金がつかず、出来ていません。お金が回らないから眠り病で亡くなる方はあとを絶たないのです。未だに世界で重要な死因の一つであるマラリアも対策はありますが、お金の関係で対策がちゃんと出来てないのが現実です。

色々な社会課題を解決する方法はありますが、お金が回らないからできないというケースがほとんどだと思っています。教育でもそうです。どうやったら世界資産の数%を社会課題に回せるのか、つまり投資家が投資する際にどうしたら一部でも社会的インパクト投資に投資してもらえるのかということに非常に興味を持ち、ここ10年位取り組んでいます。

 

お金を回すためにソーシャルファイナンスが10年前に議論されるようになり、ロックフェラー財団がイタリアのベッラージョではじめて「インパクト投資」という言葉を定義しました。それから昨年で10年が経ちましたが、笹川平和財団で「社会的インパクト投資」の投資ファンドを実践させていただけるというお話があり、2017年に「アジア女性インパクトファンド」を立ち上げることが出来ました。

 

井口:インパクトファンドについて基礎的なことから詳しくお聞かせください。

小木曽基本的に投資はお金を儲けるためにやります。しかし、社会的投資は、お金を儲けるだけではなく社会的な利益を生むことも目的とします。その意味で社会的インパクト投資は投資でなく「チャリティ」や「寄付」と同じように解釈されてしまうこともありますが、実際にはかなりの収益を出している場合もあります。社会的課題を解決していくことが目的ですが、同時に儲かってもいいのです。

実際「アジア女性インパクトファンド」は、財団の資産の一部を切り分けて運用していますが、それ以外の部分の投資より利回りが高いのです。社会課題も解決しながら、リターンも得られるという状況になっています。

ファンドの規模は100億円で、現在投資しているのは、マイクロファイナンスが多いです。マイクロファイナンスは、金融危機などのマーケットの動向にあまり影響を受けません。2008年のリーマンショックの際は多くの金融資産が多大なロスを出しました。しかし、マイクロファイナンスは比較的それらの影響を受けずに、現在でもステディに4~5%の運用利回りを出しています。

井口:金融危機の影響も受けずに4~5%はすごいですよね。

小木曽:今後、日本の財団や大学の資産運用でも積極的にインパクト投資を取り入れてほしいと思います。普通の株式投資をやって損失を出すより、社会的に意義あることに投資して、ステディな利益を出す方がよいのではないでしょうか。インパクト投資は、今後結構需要があると思います。しかし、日本は金融投資全般についてコンサバなので、投資する人が少ないですね。

 

井口:最初はジェンダーに関する課題より社会的インパクトに対して取り組まれましたか?

小木曽:笹川平和財団に入った当初は、ソーシャルファイナンスについてやりたいと思っていました。「何がやりたいですか?」と聞かれ、「ジェンダーに関することをやりたい」と思いました。というのも日本に帰国して、日本は今後ジェンダー課題に真剣に取り組む必要があると思ったからです。それでテーマを「女性」に決めました。その時はあまりジェンダーが世界的な課題として取り上げられていなかったのですが、去年頃からMe Too運動などから火が付き、急に波が来ました。この波が来ているうちに何かやっておかなきゃ、と感じています。

 

いい笑顔のお二人♪

 

今回は小木曽さんのこれまでや今のライフスタイルに至るまでの経緯をお話いただきました。

次回は、SDGsにどう取りくんでいくのか、そして女性の働き方についてお話いただきます。

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